宗左近の詩による曲は多数あるが

詩句がかなり大胆にカット・編集されることが多い。

三善晃の『詩篇』には「はじめとおわりの・鏡の雲」という部分があり、次のように歌う。

啓ちゃんもとめて 花いちもんめ

匡ちゃんもとめて 花いちもんめ

哲ちゃんもとめて 花いちもんめ

ゆりちゃんもとめて 花いちもんめ

章ちゃんもとめて 花いちもんめ

誰? と思うのだが、もとの宗左近の詩「鏡の雲」にはさらにそれぞれのフルネームと何歳でどこで亡くなったかまで書かれており、そこまでは作曲されていない。

『縄文土偶』では細かいところで詩句が帰られていたりするし、『海』では擬音の「ワオォン ヅワァル」は現れず、終結部は「地球よ 生命よ ああ世界よ 夢の炎よ」と聞こえる。案外忠実でないのだった。

荻久保和明の『縄文』では、特に『行進』で歌われない言葉が多くある。例えば

落下傘兵が落下傘を追いかけている

夢の底なんかであるものか

飛行機雲が飛行機を追いかけている

という詩行の内、「夢の底なんかであるものか」だけが歌われてその前後はない、というようになっている。こうした詩の言葉の取捨については荻久保和明には自分の基準があると話しているが、その結果詩の眼目が分からなくなってしまうところはある。宗左近の詩以外でも、荻久保和明は言葉の上で重要なポイントをカットしてしまうことがある。そのような言葉は割とエモーショナルでないからではないかと思う。

松本望の『二つの祈りの音楽』のカットも楽譜の後ろに載せられた詩を見ると随分だな、と思う。歌われない詩句は薄く印刷されていて、『夜ノ祈リ』では入り組んでいて目がチカチカする。言葉の選び方としては、具体性や生々しさがあるような言葉を回避しているように見える。『永遠の光』ではラテン語典礼文に宗左近の詩3篇から採られているが、特徴的な言葉が削られていたり、本当に一部しか使われていなかったりして、実はあまり宗左近である意味がないようにも感じる。

なぜこのようになるのか、宗左近の詩を少しだけ読んでみた程度だが考えてみた。宗左近の詩は結晶のように対称性の強い言葉の配置をする場合とほとんど散文のような場合、意味不明なくらいまで抽象的な場合とただ事実を羅列したような場合、独自用語にしか見えない場合と一般的過ぎるくらい一般的な言葉を使う場合が幅広く現れる。このため、音楽にするのに向いた部分と向かない部分が一篇の中にもあるからなのではないか。