『鬼子の歌』(片山杜秀)の三善晃の章

雑誌連載を少し覗いたことのあった、片山杜秀の『鬼子の歌』が本にまとまったということで買ってみた。とはいえそれほど興味があるということでもなく、とりあえず最初の三善晃の章だけざっと眺めてみた。中心になるのはオペラ『遠い帆』の話で、ひと言にまとめると、この作品は三善晃が自身を支倉常長と重ね、自分の人生を描いたものである、という話だった。

知らない話が色々と出てくるのは多少の興味は引かれる。『赤毛のアン』の放送当時のことや、『オンディーヌ』の話、『中新田縄文太鼓』の話などなど。記録映画の音楽のことまで出てくると、入手しやすい音源しか知らない身にはどうにもならない。が、興味深いのはそういった部分くらいで、正直なところ手っ取り早いお話を書いたくらいのものに自分には思えた。

文中、片山は死者との断絶の話をし、また三善を「永遠の少年」と言ったりする。子供の声の特権性のような話もする。こうした点からは、片山の把握する三善晃の問題意識は『詩篇』までで止まっていること、人生観については80年代あたりで止まっていることが感じられる。このような認識を90年代に押し付ければ、だいたいこのような話になるのではないか。

「死者との断絶」というような課題は、「どうにもならない」という結論が出され、それによって『詩篇』が書かれた、と思う。この問題は『レクイエム』に対する自らの返答として追い続けられたもので、そのままであれば作品としては成立せず、否定的であっても答えを出したことが、『レクイエム』に続くものとしての『詩篇』を作曲することにつながったのだろう。

また、「永遠の少年」だが、お話にしてしまうなら三善晃は1985年に青春の総決算をして、以後少年を脱した。これは『響紋』の前後、83年の『五つの唄』で宣言され、『地球へのバラード』で技術的な解決が見通され、84年の『田園に死す』、85年の『五つの詩』、『三つの夜想』で徹底的に描かれ、『王子』の完成により決着が宣言された、という風に考えている。

自分の方が個人的な思い入れで変な話をしている気もするが、片山の話はそれほど適切とは思えない、というのが軽く読んでみたところの感想だった。