『曙』(荻久保和明『縄文』)

荻久保和明はそれほど好きではないのだが、およそ組曲中に1か所くらい異常に素晴らしい部分があり、ほとんど退屈しながらその1か所のために価値のある曲となってしまうようなところがある。

『縄文』も、大方はくどさとこけおどし、というふうに聴いており、いくらか好きといえるのは1曲目の『透明』くらい、『行進』はどうでもいいし、『波の墓』もうんざりする。『曙』の印象もだいたいそんなものだが、それでも『縄文』の最高の部分は『曙』の最後だろう。

宗左近について、空襲と母親の話は度々語られる。荻久保和明の『縄文』もこれらにまつわる曲だが、中でも『曙』は心理的な落差の大きい部分を描いている。とはいえそれなりに長い曲の終結部に至るまで延々シチュエーションの設定に費やしていてやや冗長に感じる時がある。そのようにしてたどり着いた最後の部分に現れるのが、「舟はそこに」の言葉だ。

空襲で逃げ惑い炎に取り巻かれ、母親に火が燃え移り、恐慌と混乱の最中に、ふと見えてしまう。「あ、あそこから逃げられるな」と。

表層は『行進』のような追い立てられた狂気のようなものが荒れ狂っていながら、その背後ではこの怜悧な認識と判断が働いている。恐ろしい瞬間が、最後の一行に表現されている。そして荻久保和明の視線はこの瞬間を射抜いている。撃ち込まれるピアノが不穏さを掻き立てる中、合唱は異様な穏やかさで歌われる。

荻久保和明の『縄文』で、優れているのは本当にここだけだと思っているのだが、しかしこの部分だけのために『縄文』は傑作であり、荻久保和明は偉大な作曲家だと言わざるを得ない、とも思う。