サルビアかサルビヤか(『時間はきらきらと』)

『嫁ぐ娘に』の4曲目『時間はきらきらと』の詩に「サルビアの花 燃え」という行があり、原詩ではこの通り「サルビア」なのだが、楽譜を見直していたら譜面では「サルビヤ」だった。演奏はどうしているのだろうか。

そのサルビアについて。伝聞の伝聞になるが、前回も触れたこちら

http://www.geocities.co.jp/Milkyway/6021/q_totsu.html

によると「先日合唱連盟の雑誌に三善晃先生自ら"ここで登場してくる花はサルビアでないといけない理由"がある、、と書かれていたと思います。」ということらしい。

サルビアは実際本当に真っ赤な花で、咲く姿は炎を思わせる上、火よりもまだ赤くあるいは血の色を連想させるかも知れない。とはいえ、記事中には三善晃の回答も記載されているけれども、それを読んで分かった、という気もあまりしない。

 

詩を見直してみる

『時間はきらきらと』の詩は5行、4行、4行の3連となっていて、1行目を別枠と見て1行+4行×3、または最初の2行を一体と見ることで、同じ形式を持つ3連と考えられる。各2行目に「母と子」「恋人たち」「若妻」の姿が、3行目に「ぶらんこ 光をよぎり」「木もれ日」「真白きエプロンの朝」と、そこに光が注ぐ描写が置かれ、4行目で情景がまとめられる。詩をこのように一通り眺めたとき、サルビアの鮮やかな赤さには、他の部分とことなる激しい印象を受ける。この突出に戦時とのつながりを見るというのが、サルビアの必然性になるのだろう。

 

曲中での扱い

『戦いの日日』の中間部のソロについて、前回は「男たちの働き手、父親、女を愛する者」という風にまとめてみた。付け加えると、ここには「成熟」と「若さ」という対比を見ることができるだろう。大まかに言うと、Bar.のソロは「父親」であり、Ten.のソロは「若者」であるということになる。

『時間はきらきらと』の最初の部分では、「母と子」に対し(戦地から帰らなかった)父親のまなざしとしてBar.ソロが現れる。それがまた「光」でもある、と言えそうに思える。ここで、父が願うのは母と子の幸せであり、父親自身の不在は許容されている。

一方、サルビアにはTen.のソロが対応している。Ten.は「若者」である、としたとき、「よりそう恋人たち」は妻とのかつての姿、あるいは妻のもとに帰ることができたならあり得た光景を思わせるもの、ということだろう。その情熱が、「サルビヤの」のTen.ソロには戦地の血や炎とともに重ねられているのだろうと思う。