『縄文土偶』の詩を読んでみる(3)

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 見返してみて消化不良感は否めないが、現時点の理解はこうしたものになる。

ここまでで触れていなかったポイントを並べてみる。

  • 「花」「化石」といった言葉については『縄文連禱』が参考になる(一致するとか、詩として関連があるといったことではなく)。花には「生命」のような意味合いがあるだろう。
  • 「魚」は『王子』で「地下水しか泳げない」とされている。『ふるさと』で「打ちあげられた魚はもう星に戻れず」とされるのはそのつながりだろう。
  • 「星」は『王子』では「幻の光」、『ふるさと』では「光の幻」に対応しているように思う。
  • 「二筋の苦しみの光」も「光の幻」と「幻の光」との関連だろう。
  • 『王子』の第3連、「湧き出でていても」の「いても」は、「間もなく朝が来るけれども」のような意味合いだろう。「朝」には二つの世界の片方を取る決断、「夢の断崖」があるのだろう。
  • 「虹の花 縮んで開き」とあるように、「虹」と「花」の対置も時々見られる。「廃墟の上に虹が立ち」(『縄文連禱』)やその他の例から、生と死の間にかかる橋、あるいは間に立つ門、のようなイメージを持つ。より抽象化されると「世界と世界の間の門」のようにもなり得る(鈴木輝昭『梟月図』の『青』)。
  • 「鏡」には『詩篇』の「鏡の底」を思い出す。

最後に、もう一度宗左近の言葉を振り返ってみたい。(1)にも取り上げた

縄文の土偶は、生きていて死んでいる孤立者と、わたしの目に映ります。孤立者とは、生前から死後までずっと何からも断絶している存在ということです。ふるさとからはもちろん、未来からも……。

この縄文の土偶は、ただし、言葉以前の世界に属します。そこに、言葉を用いて、わたしはどう連続すればよいのか。

について。

『縄文土偶』の詩は、表現が多様で、受け止めづらい比喩が多く、展開のつながりもなかなか見通しづらい。また、詩の中で「縄文」という言葉が使われていないので、題名との関係も不明に見える。宗左近の言葉が、こうした詩のあり方につながるように思える。

孤立者という言葉から最初に連想したのは、三善晃がバスのための『祈り』のために『炎える母』から取り上げた詩行だった。

おのれ自身をしか焼かない炎の塔

おのれ自身をしか焼かないそのことのために

凍りついている他はない炎の氷柱

宗左近にとって、孤立というのはおそらくこのようなものだろう。前々回・前回の文中で「炎」と言ったものでもある。ところでこの「炎」の局面自体は、詩の中ではほとんど現れない。詩が語るのはその前とその後になる。この前後の行き来が脈絡を捉えがたくしていると考えられる。それが必要だったのは、そうして前後から漸近していく先に孤立者というあり方を表現するためだろう。

そして、3回を通じても触れなかった「筏」「音楽」「青い」「女の舌にほとばしる銀の」など思いがけないいくつもの言葉が現れたこと、また詩の内容が「縄文」と直結しないことまでを考え合わせるなら、『縄文土偶』という詩は宗左近の知る孤立による土偶の孤立の比喩である、と考えることができるかも知れない。