『縄文土偶』の詩を読んでみる(1)

クール・ジョワイエのCD『いのちのうた 男声合唱による三善晃の世界』を通じて知ることになった『縄文土偶』だったが、20年ほど聴いてきてもまだ、詩も曲もよく分からないという感じがあった。今回お江戸コラリアーずによる演奏を聴けるというので改めて詩を読み直してみて、それでも多少見通しが立つ部分もあると思えたので、現在の理解についてまとめてみたい。

 

まず、法政大学アリオンコールのサイトで、第35回定期演奏会に寄せられた宗左近自身による文章が読めるので触れておく。

縄文の土偶は、生きていて死んでいる孤立者と、わたしの目に映ります。孤立者とは、生前から死後までずっと何からも断絶している存在ということです。ふるさとからはもちろん、未来からも……。

この縄文の土偶は、ただし、言葉以前の世界に属します。そこに、言葉を用いて、わたしはどう連続すればよいのか。

このように、宗左近土偶への感受と、詩の意図や試みが書かれている。

次に、三善晃宗左近について語った言葉を見てみたい。

炎を、炎の内側から見なければならないとき、生死は灼熱のなかで一瞬交差し、この世では死ねない死と生きられない生となって離別する。宗さんは炎のなかから「明るい塋」を透視した。「現」だった。

(『夏の散乱』)

宗さんのなかで宇宙は、燃えながら祀られている。

(『虹とリンゴ』)

三善晃の曲とそこに選んだ詩、語った言葉などから見たとき、宗左近の詩にはある基本的な枠組みがあると感じる。それを単純に言ってみるなら、炎と、炎によるその前と後の世界の断絶、そこにオーバーラップする「縄文」(と「弥生」)、といったものになる。

度々語られる空襲と母親との死別の体験が、その前後で世界がまったく違うものになったという 感覚を、おそらくはもたらした。その感覚が詩の中で、「炎によって以前の世界が滅び、新しい世界が現れる」という形に先鋭化する。

これが縄文に結び付いたのは、火焔型土器の印象からではないかと思う。宗左近の、感覚を埋め尽くすほどの炎の体験があの形状と重なったのではないか。それが、「きみたちは、世界ときみたち自身を焼くあの炎を知っていたのか」というように展開され、「縄文」にまつわる多数の詩につながっていったのだろう。

これらの、宗左近の言葉と、三善晃を通じた見通しを手掛かりにして『縄文土偶』の詩を読み返してみる。

 

2編の詩に使われる言葉の中では王と王子が特徴的だが、その前に詩に現れる夜明けと、夜と昼について確認しておきたい。

詩の中では、「夜」が『王子』『ふるさと』それぞれに1回、「昼」は『王子』に1回使われている。そして、夜明けに関わる言葉が現れる。「明け方」「曙」「朝焼けの雲」。この時刻は当然ながら、夜と昼の間にある。そして『縄文土偶』の詩は、この夜明けの時刻を語っている。

捉えがたい詩句のいくつかは、夜明けの比喩となっている。

  • 「瞼」は夜空と地平線で、「琥珀の涙」は夜明けの空の色を示す。
  • 「ザリガニしか跳ねぬ」は朝焼けの雲の端が輝くこと。
  • 「断崖 にわかに白い炎を放ち」はそのように空が明るくなること。
  • 「蝙蝠の爪のひきさく瞼の洞窟の壁」は、まず「瞼」を通じて夜と眼窩と洞窟が結び付けられ、そこに引き裂くようにして曙光が差すということ。

この夜明けと夜と昼が、先に書いた炎とその前後に対応する。夜は滅びる過去の世界であり、夜明けの先には昼、新しく始まる世界がある。「裁ち切られた夢の断崖」はその決定的な時の際を示している。対して『王子』はその手前の時間が引き伸ばされた状態のように感じられる。

『ふるさと』の2、3、4連は、この「決定的な時」がどのようなものであるかを表している。

  • 第2連は『王子』との結びつきがあるように見える。「打ちあげられた魚はもう星に戻れず」、つまりその時が来たらもう元には戻れない。
  • 第3連「はじけでなければならぬ」は、その時に行き着かなければならない、または必ず至るということだろう。この光景自体は、山の稜線が明るくなり、それが川にも映っているということだと思うがそれほど確信はない。
  • 第4連は「二筋の」を「蔓」で受けて「苦しみの光の先端」と「アケビの実」を結び付けている。「女の舌にほとばしる銀の曙を知らず」はまだその時は来ていないことを言っている。

 

夜明けと昼と夜、炎とその前とその後、決定的な時、に「王」「王子」はどのように関わるか。

王と王子については、昔少しだけ触れたことがあった。

 

tooth-o.hatenablog.com

 二人の王は、夜の王と昼の王、炎の前の王と炎の後の王、滅びる世界の王と始まる世界の王、だろう。また宗左近の言葉か借りて、ふるさとの王と未来の王と言っても良いかもしれない。政治権力的な意味ではもちろんない。

 

tooth-o.hatenablog.com

世界が、あるいは夢と現実が交換できるとき、また過去の世界とその後の世界が同一でないと確信したとき、どちらが現実、本当の世界であるか。それを決定し、他を夢、幻とする、「王」とはそのことを指し、それをしないことが「ついに王となることのない王子」となる。それらはまた、一人の内面の、矛盾を含んだ意思でもある。

「王」は夜明けまでに、昼か夜か、ふるさとか未来か、決めなければならない。「夢の断崖」であり、「決斗」である。が、「刺し合う」。決められない。どちらをとることもできず、ただ時が至る。

 

この状況が、奇怪な結末に至る。そこに夜、夜明け、昼とは別の、もう一つの時間の流れが関わってくる。

「流れ始める時間の水飛沫」として、川の水は時間とつなげられている。滝は「夢の断崖」とも世界の差異とも関連するが、本来なら滝壺に落ちた川の水はさらにその先へと流れていく、つまり後の世界の時間がそのまま続くはずまたは続くべきだろう。ところが刺し合った二人の王が滝を落ちると、その先の流れに押し出されることなく、滝壺の底のさらに先へと落ち続けることになった、夜とも昼とも、ふるさととも未来ともつながらないところに放り出された、として『ふるさと』の詩が終わる。