『十一月にふる雨』を演奏することについて

お江戸コラリアーずが多田武彦男声合唱組曲『雨』を演奏する際に『十一月にふる雨』を演奏したことについて。

男声合唱組曲『雨』の4曲目が『十一月にふる雨』から『雨 雨』に差し替えられた経緯についてはよく知らない。『十一月にふる雨』については多田武彦が「なかったものとして扱ってほしい」と言った、という話だが、それも詳細は調べていない。さらに言うとそもそも多田武彦の作品をそれほど好んではいない。ということなのでそれほど深い話ではないけれども、確認として。

自分の参加している団体の周辺の事情としては、『十一月にふる雨』は案外扱われている。楽譜も何となく出回っている。まあ、年寄りの多い周辺事情という面はある。さらに言えば、所詮弱小団体ということでもある。つまり、

  • 1.どうでもいい活動であれば何をしても目くじら立てるほどのこともない。

別の観点の一つ。作曲者が封印した曲でも演奏者の関心を引く場合は割と普通にある。フランク・マルタンの2重合唱のためのミサも演奏しないでくれと言っていたのではなかったか。

  • 2.作曲者の希望はいずれ無意味になる。

もう一つ。

  • 3.PC的に怪しい歌詞も、古い作品なら特に気にされないということはあるだろう。

とりあえずこの3点から『十一月にふる雨』の件を考えてみる。

まず2.は前提というか、多田武彦が何を言おうと、最終的に演奏者を縛ることはできない。演奏者がご本人の考えをどれくらい尊重するか(それとご遺族の見解をどう考えるか)だけが問題になる。

3.は、現代への認識の問題になる。『十一月にふる雨』については、特定の単語が理念として、または実際にどれほどの人に現実的に意味を持つか。

で、1.が実は見過ごしやすいのではないかと思うが、だれも相手にしないようなしょうもない活動と自認する限りは何をしようが勝手という話になる。

お江戸コラリアーずに限定して、勝手な印象として言えば、

1.自身の活動の水準を認識した方が良いのではないか

2.作曲者の意向を無視して本当によかったのか

3.「解される」とはどういうことか

という風に問題はあったかと思う。で、本当に問題なのは1.自身の活動の水準を認識した上でなお演奏するとしたらどのような理路を立てるかというところだろう。

シンプルには、「だって歌いたかったんだもん」とか、「どう聴いても『雨 雨』より『十一月にふる雨』の方が優れている」という観点ではないかと思う。音楽として優れている、と言われれば否定は難しい。ただしそこには自身の価値判断がダイレクトに問われるという怖さがある。

「古い曲でありもはやPC的な課題は存在しない」と主張することはあり得るかも知れない。ただしこれは団体の内部で決定するのは難しい話になる。それだけの覚悟があってのことかどうか。

自分が演奏者だったら、と考えてみる。おそらくそれこそ歌えれば何でもいい、となりそうではある(実際この曲を歌ったことはある)。ただ、それなりのレトリックは用意するだろう、とは思うし、そこに必要な意思表示があれば取り合えず明示するとは思う。逆に言えば、所詮レトリックだけの問題と思っているということでもある。