『クレーの絵本 第1集』

混声合唱とギターのための組曲『クレーの絵本 第1集』は1978年、早稲田大学混声合唱団により初演された。三善晃の合唱における代表作の一つであり、この後に『クレーの絵本 第2集』、『地球へのバラード』等、谷川俊太郎の詩による作品が続いていくという点でも重要な作品である。

谷川俊太郎の『ポール・クレーの詩による「絵本」のために』は11編の詩から成る作品のようだが、そこから『第1集』に採られた詩にはある一貫したテーマがあるように思える。あるいは楽曲と共に、あるテーマを示している。5編の詩、また5曲の組曲が描くのは、<私>と世界、<私>が世界の中に生きるということだ。「階段の上の子供」である<私>が、階段を下りて世界に至る。ギターはフォークの同時代性のイメージを通じて世界を示し、シンバルはおそらく<私>自身の時代性への欲求を表す。そしてバスを中心に2、3、4曲目に共通して現れる長い半音下降の線は「階段の上」から下りていくこと、<私>が世界に至ろうとする動きを表現する。

《階段の上の子供》 1923

世の中には無数の問題や悲惨な出来事がある。が、人は自らの責でなくこの世に生まれるのだから、それらを「自分には関係ない」と言うこともできる。実際にも人は多くの問題を自身に関わりのないこととしながら生きている。「階段の上の子供」とはそれを押し詰めた姿である。<私>は世界から離れ、「階段の上」に立つことであらゆる問題、あらゆる悩み、苦しみを逃れ、階段の下で苦しむ者を笑う。自分の体までを世界の側に置いた時、<私>にはもはや名前さえ不要となる。死にも似たその位置から見える、明るいが空虚な光景が、どこか皮肉なリズムに乗せて歌われる。

《あやつり人形劇場》 1923

題名にいう「あやつり人形」、詩における「きみ」とは、自分の体のことを言っている。<私>の体はなお世界にあり、<私>の意思に従って動く。そしてまた時に<私>の意とずれた振舞いをし、あるいは腹を減らし、食事をし、トイレに行ったりもする。そして、「ねむる」。<私>の意思から離れる。それらは<私>が体を世界の側に切り離した帰結でもある。

《幻想喜歌劇「船乗り」から格闘の場面》 1923

過去や歴史と作り話を分けるものは何か。世界の歴史は「うまれるまえのそのとき」「いったことのないそこ」で起きたことでしかない。人は「それらを事実とする」というルールのゲームとして、世の中に参加する。が、時に人は、ただのルールであったはずのそれらが本当に事実であると確信してしまう。もはや<私>は世界に捕らわれ、逃れることができなくなる。その確信は「ぬるぬる」とした「生臭い」感触として訪れるだろう。

《選ばれた場所》 1927

『階段の上の子供』は、<私>が世界を放棄できると歌う。これを反転するなら、どのように世界を確信しようとも<私>に対し世界の存在を証明することはできない、ということになる。その不可能を語りながらなお「そこへゆこうと」するのは、世界とは<私>によって「選ばれた場所」だからだ。

《黄色い鳥のいる風景》 1923

 些細な事物をきっかけに、関係を辿った先に世界が現れる。世界はそのような、関連性の総体として詩の中で語られるのだが、一方で陽には語られていないものがある。詩において保証されていないにも関わらず「きいろいとりがいる」のは、<私>が「きいろいとり」を「いる」と確信するからだ。「きいろいとり」とは世界が「選ばれた場所」である理由であり、つまり「愛」の謂いである。