テーマ(音楽用語でない)について

『五つの願い』は古いしもういいんじゃないの、という話を前に書き、このごろまた書きかけたり、いや別に書かなくてもいいかと思ったりしていた。考えていたのはこの曲の時代性やテーマについてだった。

たとえば三善晃の『レクイエム』を「日本人の書いた最も偉大な作品」と言う人などもいて、今そのように見ることはあり得ると思うけれど、今後生まれる作品を別としても例えば100年後に、もっと極端に300年後に、同じように言うことはできないのではないかと思う。『レクイエム』の価値が語られるのは大方テーマとの関係で、テーマの意味は時代とともに変わるだろう。『レクイエム』が100年後に今と同じ価値を持つというのはあり得ないという以上に望ましくもない、と自分には思える。

あるいは林光の『原爆小景』。この曲の意義は核兵器がある限り不変かも知れない。つまり、意義を失う方が望ましいということになる。そのこととは別に、実際の世界の核化との関係でこの曲が何なのか、ということが問われるかも知れない。東京混声合唱団の「8月のまつり」は日本の国内で閉じていく活動のような印象がある。

『五つの願い』に戻ると、『春だから』の「国家という大きな象が足がしびれて/一日くらい動けない」というのが、東日本大震災以降は「悪くない」などとはとても言えない、という気分が自分にはある(これが「東日本大震災」以降なのは自分が呑気に生きてきたということだが)。というように、『五つの願い』の一曲ごとに、現在の自分と世の中を見返したときに「とてものこんなことを願えない」と感じる。『五つの願い』は古い、というのはこうした意味で言っている。

一方、テーマが過去のものになった曲や自分の経験と接点のない曲を演奏するというのもよくあることではある。信仰はないがミサ曲を歌う、他国の民族の独立についての曲、大戦時期の戦意高揚のための曲など。こうしたときにどのような視点があり得るか。

テーマへの関心を放棄してしまうというのはある。合唱について言えば、歌えれば、声が出せれば何でもいいというのはありがちだし、一度も詩をちゃんと読まないまま演奏会に突入という話もそれなりにある。

曲を作曲された時期や状況に置き直す、ということもあるだろう。その中で、演技的にその立場に没入する、または現在の視点から相対化する、ということになる。

もう一つ、テーマ自体を更新する、ということがあり得る。「現代的な意義」という言い方をされるのはそうしたものだろう。

テーマを持つ音楽の価値はテーマの意義や射程と結び付いている。それを解きほぐすことができるか、また書き換えることができるかが曲の寿命と関わるだろう。