『また昼に』

同じ詩に書かれた曲を比べてみるということをするなら、小林秀雄の『優しき歌』と柴田南雄の『優しき歌・第二』を並べるのも面白いかも知れない。

立原道造の詩によるこの2つの曲集には、『また落葉林で』と『また昼に』の2つの詩が共通して扱われているが、その印象はかなり異なる。一つには、柴田の曲の場合それぞれの曲が確固とした様式を持ち、個別の性格を持つことによるだろう。が、それとは別にこれらの曲集はそれぞれ一貫した傾向あるいはストーリーを持ち、それが示しているものが異なっているように思う。ここでは『また昼に』について見てみたい。

小林秀雄はこの詩を4曲の曲集の最後で使用している。小林秀雄の『優しき歌』はざっくり「愛と詩の相克」といったストーリーになっている。つまり、第1曲『爽やかな五月に』で「恋人に好きとも言わずに星よ花よとか言ってる奴」が4曲目で「ここがすべてだ! ……僕らのせまい身のまはりに」という答えを出す、という流れになっている。この『また昼に』の最終行は、小林秀雄の曲では勝利または解決として描かれているだろう。

柴田南雄立原道造と近い年代(2つほど年下)で、帝大の工学部と理学部ということもあり、立原道造の詩について世代的な共感のようなものを語っていた記憶がある。その柴田は『また昼に』の詩で非常に特徴的な曲を作った。無調的であり、言葉の分解や空間音楽的な表現を含む、いわゆる前衛的な音楽となっている。「光」という言葉に特別な表現が与えられているのだが、明るすぎて色を感じられない、という印象を受ける。個人的には、陽光の下で干からびていく日陰の生き物の歌のようなイメージがある。そうして、この曲の次には『午後に』があり、「私のおかした あやまちと いつはり」が歌われる。

このように見ると、2人の曲はほとんど正反対の方向を向いている。「ここがすべてだ! ……僕らのせまい身のまはりに」という一行に与えられた響きが、端的にそれを示しているように思う。

『甃のうへ』3曲

三好達治の『甃のうへ』には多数の作曲家が曲を書いていて、こちらのデータ

http://www.geocities.jp/scaffale00410/index.htm

では11人もいるらしい。その中で聴いたり歌ったりしたことがあるのは萩原英彦、多田武彦荻久保和明の3曲ほど。

萩原英彦の『甃のうへ』は『抒情三章』の一曲。『抒情三章』は、楽譜の序文をざっと読んだところでは、萩原が若い時期に書いた曲を整理・処分する中でこの曲は残しておこうと思ったものをまとめたものらしい。曲は「ひとりなる/わが身の影」でわずかに沈むにせよ、「翳りなきみ寺の春」に見合う明るい調子の音楽になっている。ただしやはり楽譜の序文からは、苦悩の青春期に書かれた曲のようであり、曲の明るさの意味は考えてみる必要があるかも知れない。

多田武彦の『わがふるき日のうた』は男声合唱では有名な曲で、その第一曲である『甃のうへ』もよく知られており、動画なども多い。痛切な憂愁の表情が特徴的な曲だが、この表情はおそらく「ひとりなる/わが身の影」のゆえに「翳りなきみ寺の春」が耐え難い、ということだろう。詩を読み解く感覚の鋭さを感じる。

荻久保和明の曲は、対位法の訓練として書いた習作のようなものであったらしい。全体が曖昧なメランコリーに浸る中で、各部分ごとの詩句の表情を表現するような音楽になっている。前2曲の表情は「明るさ―暗さ」の線上にあるが、荻久保の場合は「花びら―甃」、「軽さ―重さ」という見方をしているように思える。

並べてみると、作曲家それぞれの性質のようなものが見えるような気がして面白い。尾萩原英彦は「わが身の影」に対して救いのようなものを求めたのかも知れず、女声合唱として書かれたのもそのような意味かも知れない。あるいはそこに信仰も関わるだろうか。多田武彦にはそのような感覚はなく、ただ「影」があるばかりであり、それは詩に対する忠実さでもあるだろう。荻久保和明については、実は「影」という感覚が分からないのではないかという気がする。健全さでもあるのだろうが、憂鬱さは気分であり「影」のような内面での実体的な何かとしてはとらえられないという風に見える。

CANTUS ANIMAE第22回演奏会「この曲、聴いたことありますか?!」

 

tooth-o.hatenablog.com

 などと書いていたが、強引に都合をつけて聴いてきた。

平成31年2月2日 第一生命ホール

  1. 『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』 芥川也寸志
  2. 『三味線草』 森田花央里
  3. 『歌集 田園に死す』 三善晃
  4. 『不完全な死体』 信長貴富

どのステージも、実力は見せつつも手放しでは評価できない、という印象だった。個人的に全く関心を持てなかった第4ステージ以外について、思ったことを書いてみる。

『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』は、考えていた以上に難しい曲なのかもしれない。半音の動きが多く、音程の不確かさが無闇にスリリングだった。雨森文也に合わない曲、ということも思った。この曲は先が読めることと、それが微妙に外されることで力を発揮するように出来ていて、むしろメトロノームで歌う位の方が訳が分かった気がする。あるいはそれなりの実力のある大学合唱団が学指揮ステージで演奏する方がいい演奏になったのではないかと思う。トークや解説には知らなかった話が幾つもあったが、60年代の作曲という時代背景については触れるべきだった気がする。

森田花央里は『三味線草』の作曲の事情について多少のことを書き残していて、それを見た感じではあまりマイクでしゃべらせるのは適切でないという気がした。演奏についてはその森田のピアノが異様にフィードバックの効いた弾きぶりで、合唱が無神経に感じられるほどだった。指揮者が全部グリップするか、ピアノに全面的に従属するかしないと質感が揃わないところ、どちらでもなかったために聴く側でスタンスが定まらないままになってしまった。

田園に死す』は2台ピアノとはいえ今回のプログラムの中では普通の合唱曲だったはずだが、かえってそれで気の抜けた演奏だったかも知れない。思いがけない魅力もあったが、OMPの録音の印象を更新するほどではなかった。

CANTUS ANIMAEは団の演奏のスタイルが意外と強くある団体なのだろう。今回の曲目はその適合具合が露わになるというところで面白さがあった。

『王子』(『縄文土偶』)

『縄文土偶』の楽譜には、初演時のプログラムの文章が載せられている。『縄文土偶』は特殊な成立をした曲だったため、『ふるさと』の初演と『王子』を合わせた『縄文土偶』としての初演があり、その両方について、序文の代わりに置かれている。

『ふるさと』が初演された1981年の文章「未分化の原点で」には、次のように書かれている。

男声合唱と言う私にとっての広い未分化の領域は、まだまだ表現への分化を果たしていないのであり、イメージはその原点にとどまっていることになりましょう。音楽とは、その原点からイメージが表現として分化され、再びその原点に戻って未分化の原風景を描く芸術です。まだ、そこに到っていない拙作を聴く今夜は、私には、一つの出発の契機でなければならないでしょう。

そして、1985年の「心を辿る」では、

「王子」の音は「ふるさと」の前景として聴こえてはいたが、それを「ふるさと」という山に登ってゆく道として定位することが出来ずに4年経ってしまった。今年の秋、それを「ふるさと」の山頂から望見し、改めて辿ってゆくことにした。宗さんとアリオンにお詫び申し上げつつ、改めて男声合唱曲〈縄文土偶〉として捧げる次第である。

前者を『王子』の作曲が当時できなかった意味、後者をこの時作曲した方法と見ることができそうだと思える。

分化、というのだが、『王子』の詩に三善晃は動揺したのだと思う。そのために「イメージ」が安定した形を取らず、「表現」に至らない。「『ついに王となることのない王子』とは俺だ」と思ってしまった、ということかも知れない。

「切り離すために描く」というのは『五つの唄』の話だが、『王子』の作曲もそのようなものだっただろう。1984年、85年の作品群はどれもそのような曲なのだと考えているが、その中で『王子』は、まず『ふるさと』に至るべき背景として見通され、それが自身の心の動きと同型である、という運びで作曲された、という風に、三善晃の文章は読めると思う。

 

 

今度のCANTUS ANIMAEのコンサートには行けそうにない

CANTUS ANIMAEが『歌集 田園に死す』を演奏するということで非常に興味はあるのだが。

田園に死す』はピアノ2台に対して合唱は割合簡素で、いくらか歌曲に近い印象がある。ユニゾンや、和音を伸ばしている部分も多い。聴く分にはそれで合唱が物足りない訳ではないのだが、アマチュア団体の練習だと扱いに戸惑う面もあるかもしれない。

この曲が東京混声合唱団の委嘱作品(それも楽譜によると「第100回」定期演奏会の)だというのも興味深い。あの東混であり、第100回であり、と思うとき、当然期するものがあったはずであり、三善晃にとってそれが何だったのか、ということが気になる。

その他、信長、森田についてはあまり知らないのと、信長貴富についてはあまり好みでないという印象があり何とも言えないが、芥川也寸志の『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』は聴きたい曲だ。この曲は八村義夫が非常に高く評価していた。少し長く引くが、八村の文章を集めた書籍『ラ・フォリア ひとつの音に世界を見、ひとつの曲に自らを聞く』には次のように書かれている。

才能というものはおそらく外的には最も目だたない個所においてつかわれ、その堆積が最大限の効力を発揮するようにしておくのが、才能の、いわば基本的な使い方なのだ。この曲は、それが顕示的に現れているよい例だ。そういう作品はそうたくさんはない。シルヴァーノ・ブソッティの諸作品や、林光の《ゴールド・ラッシュ》、《不死馬》やジェズアルドのマドリガルのいくつか等が、ぼくがそのように感じているもののリストであり、音楽の様式や語法と無関係に、才能の冴えを聴くものとして存在している。《お天道様、ねこ、プラタナス、ぼく》も、そのリストに加えるのに躊躇しない。

こんな文章を読んだので気になって、楽譜もCDもかなり以前に購入していた。入手できる演奏は古いもので半音の動きが多いこの曲をそれほどうまく歌えていないのだが、それなりに訳は分かるし、八村の言うことも分かる気がする。